芸術の域に達するために

◆人が起こすから『奇跡』

バレエダンサーや、それを目指す人は毎日稽古をする。それは体を自由に動かすため。間をあけるとなまるし、感覚も鈍る。体を動かすことは、かなり感覚的で「ここを動かすと足が上がる」だけではなく、「軸足の裏から頭の先へ抜けて・・・・下腹の奥を引き上げて上半身は筒のように・・・手は背中から生えているようにし・・・・あげる足の外側は戻し、内側を使って放り出すように」と意識する箇所もたくさんある。日によってコンディションも違うので、昨日動いた場所が、動かなくなっていたりすることも整え、修正していく。

なぜ、そんなに繰り返し稽古するのか?それは舞台に上がった時、演技・表現以外のことをあまり考えなくても踊れるように、体を動かすことに意識をもっていかれないように訓練しているのだ。一流のバレエ学校に入学する生徒などは、もともとその感覚を持っているか、感覚を捉え易い体つきをしている。一回しかない本番で、確実な技、美しい形を披露することや、技術に上乗せされたニュアンスを動き一つ(例えば指先ひとつ)で光る表現することはとても難しい。それを可能にするのは毎日の稽古のおかげである。

バレリーナは毎日どのような気持ちでレッスンに望んでいるのだろうか?また、できない、スランプ、伸び悩んだ時にどうしているのか?完璧な体の人はいるのか??




『小児心臓外科医 佐野俊二さん』
生まれたての赤ちゃんの心臓は3センチ。その小さな心臓を手術するとなると、ほんの少しのミスが命に関わる事態になる。そんな重圧の中で仕事をしている。一日多い時で5件、年間で300件。ほかでは「手の施しようがない」と断られた子供たちが、最後の可能性を求めて佐野さんのもとにやってくる。

「休めば、それだけ腕が落ち、患者の命に関わる」
「まず第一に集中力。集中力が高まると、普通の人には見えないものが見えてくる。」


手術は手先が器用に越したことはないが、それだけではない。医学は科学だからそこに理論がある。だが特に心臓の場合は、最後の最後のところの決断は人の持つ感覚の領域に入ってくる。それは「トレーニングと経験を重ねることによって研ぎ澄まされていく」のだと佐野さんはいっているが、「トレーニングを積んでも感覚が浮かんでこない人もいる。それは説明できない。」とも言っている。


私は医療という究極の理論の分野で、最後の最後の判断は人間の感覚や集中力であることに驚いた。いつか「伝統芸能の役者もいづれはロボットが・・・」という話を講義で聞いたが、まだまだ最先端テクノロジーよりも人間の感覚は勝るものかもしれない。


つづく

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つづき

茂木氏いわく・・・

佐野医師の「メスを入れるべき場所が光って見える。」という言葉に、「伝統芸能の匠や、前衛的な芸術家にこそふさわしい言葉が、合理的思考と、科学技術に支えられているはずの小児心臓外科医の口から漏れるとは、まさに佐野医師の手術は一つの芸術表現である。」と書いている。
人間の感覚の可能性こそ、未知数で尊いもの(=芸術)だと私は思う。

  • プロセス的には、自分を磨き「超」(神)の世界に入る→人の命を救う(喜ばれる)→やりがい
  • 脳の機能的には、命を救うための必死の努力→脳の潜在能力が最大限に発揮される

つまり、

  • 誰かのため磨いたもの(超であること・非日常の域であること)→人の心を動かす医療・技術・芸術となる

私はこれを、日常の小さなことにも使えると思う。




◆プライド考

医師になる過程で、若い医師が陥るのが、一例でも多く手術をしたい、一人前としてやりぬきたいという気持ちが出てきてしまうこと。しかし、そこに技術、心と頭が伴わなければ、最後に犠牲になるのは患者だ。

「小さなプライドが捨てられない、だからみんな困っている。しかしそういう場面でプライドを捨てられる人は、きっとよい医師になれるでしょう」

はじめて自分の患者をなくした時から『一人たりとも犠牲にするわけにはいけない』という気持ちを持ち続け、なにより“患者の命に勝るものはない”ということを、見失わないようにしているそうだ。


バレエも、出来るか出来ないか、上手いか下手か、自分はキレイか・・・を表に出さないにしろ、プロアマ関係なくみんな考えている。前回のリゾート再建請負人の仕事流儀はみんなが主役だった。しかし、医師、バレリーナは一人でも主役になりうる。そこで佐野さんは“患者の命に勝るものはない”と考える。バレリーナは?“お客さんのために”なんて嘘っぽい。

究極、バレリーナは自分のためにプライドを捨てることはあるかもしれない。上手くなるために。自分のためになら多くの時間も割く。それ以外のことは排除するか見る暇がない?そんな人間関係って・・・・?どこまでも個人。

  • 医師・技術者(世のため人のためを考える)→バレリーナ・匠(自分の個性を見て世の中が喜んでくれれば、これ幸い)??冷たい。

問題1号
バレリーナって世の中との関わりが見えてこない


◆人を育てること=自分の存在価値を自覚できている

佐野医師の場合いわば能力の伝承。
「自分が手術できなくなったら、泣きを見るのは患者さんだから」
これが佐野さんが考える人を育てる意義。
自分が世の人のために働いている自負があり、自分の仕事に誇りをもっている。


バレリーナが引退した後、もしくは後輩が出来た時にはたす責任とは?またそのタイミングとは?
ダンサーが自負する自分の価値とバレエの価値。まずは、バレエという芸術に対する敬意をもって、その価値を落とさぬよう舞う“担い手”のような自負があると思う。そして、踊りという外からの評価が必要な分野は、より強く自分、個性として存在しなくてはいけない。



☆医師 佐野俊二さんが考えるプロフェッショナルとは
誇りと責任です。誇りを持たないといけない。誇りだけで責任が取れない人はダメです。それをしようと思えば、やっぱり努力しないといけない。」

(◆人を育てることの項)

本当の意味でプロになるためには、自分の時間を割いて、ほかの事を犠牲にする必要がある。才能があっても時間をかけずに上り詰めた人はおそらくいないでしょう。自分に才能がないと思うなら、もっともっと時間をかけないと。

(◆プライド考にかする。どっちかというと、がんばり考)


「どの分野であれ、本当のプロと呼ばれる人は社会に与える影響も強いものです。その自覚がないといけないし、だからこそ努力もしなくてはいけません。ただし、努力をしていますといっている間はプロじゃないと思う。何も言わなくても、見た人がすごいと思ってくれるのがプロでしょう。努力は人のためではなく自分のためにするもの。結果的に、プロになった自分が社会のために貢献できれば、それが一番すばらしいことだと思うんです。」




なんだか、私が言いたかったことが全て書いてあって凹む。
つまらない?